自己紹介

現在40歳を過ぎたひろぽんです、大阪生まれの大阪育ち
嫁さんと2人の息子がいる平凡なお父さんをやっていました。

そして、僕の人生は折り返し地点に来てるので
この先も平凡に過ぎていく予定、

そう、・・・その予定だったんですが、
“予定は未定”とはよく言ったもんですね。

平凡どころか思い返せば結婚して子供が産まれたあたりから
普通では考えられないような波乱万丈の人生となっているんです。

例えば、給食のおじさんをしていた僕が
一家心中寸前まで追い込まれた矢先に
女装してブラジャーに助けられたり

マイホームがあるのにドバイで物乞いをし、
灼熱42度の気温の中、お金を貰って生活していたり

経理の知識すら無いのに銀座に事務所を構え
年商1億円アパレル販売企業の社長になっていたり・・・。

これだけ書いてると全くつながりもなく意味不明だと思うので
どうしてこんな事になってるのかというのを
紐解いていきますのでよければ続きを読んでください。

1

ピンクレディーが全盛期だった昭和の時代に
大阪で生まれた僕は公務員の父と専業主婦の母の元で育ちました。

公務員だった父親はNHKのニュースや新聞を
いつも険しい表情で見てるような
ちょっと頑固で真面目なタイプ

母親は心配性なところはあるけど
家事や育児をせっせとこなす働き者でした。

普通の家庭と言ったらいいんでしょうか、
特に変わった所もないので書くのに困りますが
どこにでもあるような一般の中流家庭だったと思います。

母親が専業主婦をしていたくらいですから
生活は特に裕福という程では無かったですが
不自由してるわけでもありませんでした。

そんな家庭で育った僕の小学校時代はクラスの中心人物とは真逆の
特に目立つこともない空気みたいな存在だったでしょうか。

勉強しても特に出来るわけでもなく、
体育が得意といえるをやっても特に出来るわけでもなく、
どちらかというと平均より少し下に位置してました。

 

それに加え身体も小さくガリガリに痩せてた僕は
体力もなく、喘息の発作が起こっては寝込んでしまうという日々。

激しい運動が出来ず他の子供たちが休み時間に
ドッチボールや鬼ごっこなどで走り回ってるのを横目に
「いいなー楽しそうでうらやましいなー」と思ってたタイプでした。

そして、特に苦手だったのが給食の時間でしたね。

普通、小学生って給食の時間ってメチャクチャ楽しみにしてませんでしたか?

給食の時間が近づいてくると給食室から何やら美味しそうな
ニオイがしてきたりすると、お腹もグーグー鳴りだすし
授業そっちのけで後何分で食べれるーなんてソワソワしてる子も居てましたよね。

食欲旺盛な子どもたちは「いただきます」の号令の後も
いかに早く食べ終わっていち早くおかわりを
貰いに突入って感じだったりとかなのですが

そんな、みんなが楽しみにしてる給食時間が苦手っていうのが
不思議に思われるかもしれませんが、
神経質で食が細く背骨やアバラが浮き出てるくらい
華奢でガリガリだった僕は、
おかわりをするどころか普通に盛られた給食の量を食べることすら苦痛でした。

時間内に食べきれず掃除の時間まで突入することも度々あり、
みんなが掃除をしてホコリが舞ってる中
うつむきながら食べていました。

まあ、思い返せばそんな暗い事ばっかりが蘇ってくるんで
ぶっちゃけ、生きてるのが楽しくありませんでした。

小学生の頃に母親にいつも言ってたこの言葉が
印象深く残っているんですよ。

「おかん、僕30歳くらいまで生きたらもう死んでもええわ・・・」

普通こんな事、子供が言います?(苦笑)

心配しているのか呆れていたのかわかりませんが

「・・・ホンマにあんたは夢も希望もない子やな・・・」

そんな言葉を母親からはかけられていました。

ほんまになぜそんな暗かったのか今でも謎なのですが、
満たされない何かがあったんでしょうね、

上手く表現が出来ないのですが
家があるのに自分の居場所がない、親や兄弟がいるのになぜか孤独感があり
何とも言い難く満たされない感覚と無気力な感じが混ざってた感覚です。

両親には育ててくれた事を感謝していますし
愛情をかけて育ててくれていたのは
もちろん感じていたんですが
どうしても幼少期を思い出すとそんな感覚が今でも残っているんです。

そんな毎日を過ごしていたせいか
小学校、中学校の記憶はほとんどありません、
思い出に残るような印象的な出来事が無かったんでしょうね。

ただ何となく生きていた感じです。

高校生になった僕はさらに無気力が加速してきいきます。
勉強に全くついていけなくなり高2の中間テスト
9科目中8つの赤点を取り
親が学校に呼び出され、先生がこう告げたそうです

「このままだと息子さん、卒業出来ませんよ・・・」

先生にそう言われた母親は泣いていました、
「あんた大丈夫か?高校も卒業出来ひんなんて将来が心配やわ・・・」

 

さすがに親を泣かして心が傷んだのですが
もはや勉強をする気力も出ず
カンニングペーパーを作り乗り切ることにしました。

細かい字で答えを書いた小さな紙を筆箱に隠し
手汗を書きながら先生の目を盗んで書き写すという事を
毎回のテストでやっていました。

そんな努力(?)をした結果
なんとか赤点回避ギリギリの点数を取り
卒業することは出来ました。

今思うと最低な事をしてますね、先生ごめんなさい(汗)

高校を卒業する前にはみんな進路を決めていくわけですが
勉強もしたくない、仕事もしたくない
僕の人生、何をすればいいのかわからない・・・
半分ノイローゼみたいになっていたのかもしれません。

何も考えたくなくなり
同級生たちが大学に進学やそれぞれの仕事についていく中、
進むべき道に迷い1年間の引きこもり生活を送ることにしました。

 

まーでも、今思うとこの1年が人生を見つめる良い機会になったと思います。

当時はまだインターネットもない時代だったので
テレビを見るかゲームをするか音楽を聞くくらいだったので
他に楽しみの無かった僕にはどんどんやることが無くなっていくんですね。

日に日に暇を持て余す時間が増えていく生活が
1年も続いてくるとさすがに引きこもってる方が辛くなっていきました。

何かやりたい、外に出たいという欲求が出てきて
ふと思い立って栄養士の専門学校にいき調理の道へ進むことになりました。

卒業後、面接で受かった調理の会社で
給食のおじさんをやる事になり仕事を通し
少しずつ料理が出来るようになる嬉しさを感じながら働いていた
僕の人生が大きく変わったのが26歳の時でした。

給食のおじさんとして働いてた僕は給料は安かったものの
家賃と食費がほぼかからない住み込みで働いてたこともあり
貯金も少しずつ貯まっていきました。

 

調理の仕事なので何も取り柄の無かった自分が
料理が少しずつ出来るようになっていったのは
楽しかったのですがある程度出来るようになってからは
毎日同じルーチンワークになりつまらないと思い始めるようになりました。

そうなると、また悪い癖である無気力が発動しはじめ仕事も嫌になってきた僕は
今いる環境を変えたい欲求にかられ
海外に行く事を決意、パスポートを取りかねてから行ってみたかった
オーストラリアの語学留学を申し込みました。


「行けば人生の何かが変わるかもしれない」

今思えば、自分自身が満たされないのを環境のせいにして
ただ逃げたかっただけでしたが、行けば何かが変わるんじゃないかとの思いつきです。

そんな淡い期待を胸に初めての海外、しかも一人でチャレンジする
6ヶ月後の出発日を心待ちにしていたある日、
タイミングが良いのか悪いのかわかりませんが彼女が出来てしまったんです。

その彼女と付き合い始めて楽しくなってきた僕は留学のことを
なかなか言いだせなかったのですが徐々に出発の日は近づいて来ており
いよいよ言わないわけにはいかないので伝える事にしました。

オーストラリアへの語学留学に2ヶ月後なんだと、
それを聞いた彼女は唖然とした顔をした次の瞬間
突然泣き出してこう言いました。

「絶対イヤや!行かんといて、キャンセル料がかかるなら私が全部出すから!」

そう言われた僕は、正直悩みました。

 

相当考えた結果、
海外に身を置くことより誰かから必要とされる喜びの方が強かったんでしょう
結局は彼女を取り日本に残り同棲をスタートすることになりました。

同棲はすごく新鮮でした、環境を変えたいという欲求も満たせ
ずっと孤独を感じて生きてた僕には共働きで余裕もある
お互いを認め合って尊重しあえる生活、
テレビを見ながらたわいもない話をするだけで
毎日が幸せでした。

その後、同棲しながら交際は順調に進み
結婚して子供が出来てとトントン拍子
幸せへの階段を登っていきました。

子供を授かり毎日成長していく我が子の表情と
大変さと充実感と今まで得られなかった感情が
いくつも押し寄せてきてました。

息子が生まれると自分だけの人生ではなく
親としての自覚も芽生え将来のことも考え
給料の良い仕事に転職もしました。

学生時代の自分とは違ったすごく前向きな自分を発見できたのも
子供のおかげだったと思います。

食品工場の生産管理に転職した僕は
残業もたくさんあり日々の仕事で疲れてはいましたが
給料も30万近くになりしかも共働きで
生活費にも余裕が出てきたので
35年ローンを組み念願だったマイホームを手に入れました。

今思えばこの時が幸せの絶頂でした。

こんな幸せがずっと続けばいいのに、
そう思ってた僕に
まさかこの後に一家心中も考えるようになるとは
夢にも思いませんでした。

2

35年ローンを組んでるとはいえ夢のマイホームを手に入れ
2人目の息子も授かり保育所に預けながらも
家族4人平和に暮らしていました。

正月には近くの神社にお参り、
こどもの日には鯉のぼり、春にはサクラを見に近くの公園へ
クリスマスにはサンタさんでプレゼント

行事がある毎に出かけては写真を撮るなんていう
そんな些細なことで幸せでした。

幼少期の暗かった人生からようやく幸せな日々を手に入れる事が
出来たと思っていたのが一転
崖から突き落とされるような出来事が立て続けに起こったんです。

一人目の息子が生まれて将来を見据えて転職した食品工場が
不景気の煽りを受けて閉鎖するというのです。

課長に呼び出され、工場が閉鎖する旨と今後について聞かれました。

「お前、九州の工場に転勤するか辞めるか選択肢は2つに1つ。どうする?」

念願のマイホームを手に入れて家族4人で幸せに暮らしていたところに
単身赴任かリストラの選択

ほんまに死ぬほど悩みました。

悩んでなかなか結論が出ませんでしたが
「家族バラバラになるなら何のために家を買ったのかわからない」

そう考えた僕は会社を辞めることを決意しました。

この時すでに34歳になっていました。

不景気で転職は難しいと話には聞いてましたが
ホンマに難しかったです、
30歳を超えてからの転職は企業は即戦力を求めるので
自分の条件に見合う30万程度の給料の仕事を探しても見つからない

ハローワークに通い続けても
面接すら受け付けてくれない日々に焦りを感じ、

かと言っていつまでも無職の状態はまずいということで
手取りで20万にもならなかったのですが
調理師として働くことにしました。

10万くらい給料が下がり
マイホームの35年ローンが重くのしかかって来てはいましたが

「まあ、共働きだし節約すれば何とかなるか」

気楽にそう考えていましたが、しばらくして
追い打ちをかけるようにさらなる悲劇が起こったんです。

お互い休みで家でゆっくりしていたある日、
突然、胸を抑え息が苦しいと言った嫁さんがうずくまり
苦しそうにうなだれています。

どうすれば良いのか分からずオロオロしていると
呼吸がどんどん早くなっていったかと思うと
瞬く間に顔面も蒼白になり
その表情からただ事でないのがわかりました。

「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ・・・・・・」

「おい!どうしたんや?大丈夫か?救急車呼ぶか?」

そういった僕に嫁は

「ビ、ビニール袋・・・ちょうだい・・・はやく・・・」

僕は台所にあったビニール袋を渡すと
口元にあててしばらくすると呼吸が落ち着いてきました。

ようやく落ち着きを取り戻した嫁さんが
か細い声で言いました。

「最近、過呼吸がよく出るねん、疲れてるんかな・・・」

転職して給料が下がってしまった事で
生活費を切り詰めてやりくりをしてくれ、
育児と体力的に精神的に負担がかかっていたんだと思います。

病院で診察を受けた結果
「パニック障害」と診断されました。

先生が言うには症状もまだひどくないとの事で
薬をもらい様子を見ることになりました。

「まあ、疲れてるだけやし、すぐに治るやろ」

そう軽くとっていた僕の考えとは裏腹に薬だけでは良くならず
どんどん症状が重くなっていきました。

薬は飲んでいたのですが
過呼吸と心臓のバクバクが頻発するようになり
死んでしまうという恐怖が度々襲ってくるようになりました。

時と場所を選ばない死の恐怖が襲ってくることで
普通の人なら当たり前に出来る事が出来なくなっていきました。

1人で外に買い物に行ったり
電車に乗ることも出来なりました。
当然、こんな症状が出ては仕事もまともに出来ないので
辞めてしまいました。

さらに症状が進行し
家に1人でいる時も容赦なく死の恐怖が襲ってくるようになり
僕の職場に電話が掛かってくるようになりました。

「苦しい、助けて・・・」

いよいよ危機感が襲ってきました。

「ちょっとこれはマズイ・・・」

嫁さんと子供2人の生活費は
とてもじゃないが
僕一人の調理師の給料じゃまかなえないし
嫁さんの症状がさらに悪化すると
嫁さん1人を家に残して仕事に行くことすら出来なくなるかもしれない。

焦るだけではお金は増えないわけで
あれだけ苦労して毎月貯めていた貯金は
生活費に充てるだけで徐々に減り続けていき0になるのも時間の問題、
このままでは家のローンも払えず住むところも無くなり
一家心中するはめになる・・・。

家族の寝顔を見ながら
「何とかしなければ・・・」そう考えますが
良い解決方法も思いつかず。絶え間なく襲ってくる不安と恐怖で
眠れない日々が続いていきました。

3

家族全員の運命が僕の手に握られている
給料を増やすために外で働くのは子供にとっても
病気の嫁さんにとっても良くない

そんな状況でしたので給料を増やすには在宅で
出来る仕事を探すしかなかった僕は
在宅で出来る仕事をネットを探しまくりました。

いろいろ仕事は見つかりましがどれも単価が安いんです。

調理師の仕事から帰って来て家にいてる数時間しか
仕事が出来ないので高単価の仕事を探しました。

ようやくこれだ!と見つけたのが
【チャットレディー】という仕事でした。

チャットレディは文字通り、パソコンを使ってチャットを通して
会話をしてお金を稼ぐ仕事です。

 

パソコンにweb用のカメラをつなげてテレビ電話みたいにして
繋いできた男の人と話しをすると1分で60円もらえるんですよ。

1時間話をすると3600円になるという
破格の時給ですよね。

レディーと書いてるので当然女性の仕事です。

「ん?チャットレディーを男が出来るの?」

そう思われたかもしれません。

カメラには自分の姿が映ってしまうので
それを見て男性がお金を払って会話をしにくるので
僕がおっさんの格好のままで待機していても
誰も話に来てくれないわけですよ。

じゃあ、どうするか?

・・・女装です。

待機してる映像が少しでも可愛く映るように
いろんな角度や光の当て方、ナースのコスプレなど
研究をしていました。

幸いなことに
今から10年以上前の話なので
webカメラの画質は荒く
顔出しもしてる人が少なかったので首からしたは
結構カワイイ感じで映せたのでなんとかなってました。

これだけでチャットをしながらお金を貰えるのだったら
楽だったのですが、

当然、つないでくる男性たちは下心があるわけですよ。
しばらくチャットで会話をしていると
服を脱いで欲しいという話になっていくんですね。

当然、僕は男・・・
おっぱいがあるわけではありません。

でも、見せないというのが伝わると
すぐに接続を切られてお金が発生しなくなる。

1秒でも長く接続してもらうために
「恥ずかしい」「もうちょっと仲良くなったら」って
なんとか伸ばしていきましたが限界がありますよね。

もっと稼ぐためにとうとう僕は最終手段に・・・

今思い出してもホントに屈辱ですが
嫁さんのブラをつけタオルを詰め込み
大きな胸を作りブラウスでカメラに映っている僕がいました。

ぺったんこだった男の旨がプルンとした見事なDカップを作り出し
男性の下心をくすぐるようなチャットをしてお金を稼ぐ日々。

カメラに映る自分の姿を見て何度も自己嫌悪に陥りましたが
それでも家族を守るためだと割り切ってカメラに映っていない
歯を食いしばってる自分がいました。
見栄もプライドも完全にどっかいってたんでしょう。
とにかく家族を守るために必死

毎日仕事から帰ってきては深夜、家族が寝静まった後に
こんなことをやってお金を稼いでいました。

ただ、ネットの進化は早いので
カメラの画質もすぐに良くなるだろうし
この稼ぎ方もすぐに通用しなくなるのは
目に見えていました。

漠然としたそんな不安もあったので、もう一つ見つけていた
インターネットを使った転売というのにチャレンジをしました。

商品を売ったり、アフィリエイトの知識を身に着けていくと
いつの間にやら調理師の給料をアッサリ超える事ができ
念願だった脱サラをしインターネットのみの仕事で生計をたてることが出来るようになりました。

通勤する必要がなく休みも自分で決められるようになり
いつも家族といられたり、ほんまに幸せになっていきました。

あれだけ悪かった嫁さんの病気も僕が一緒にいることにより
完治とまではいきませんがだいぶ良くなっていき
平和な家庭を取り戻しつつありました。

4

インターネットでの仕事が順調に進み
脱サラをしてインターネットさえつながっていれば
家でも外でも場所も時間にも縛られない生活を送ることが出来ました。

当時、インターネットを使えば誰でも稼げるようになっていたので
ネットビジネスバブルと呼ばれていました。

 

ただ、その業界の評判はよくなかったんですね。

インターネットのビジネス業界は詐欺が横行しており
全うな商品を販売していても同じ犯罪者に見られる傾向があります。

家に毎日いてパソコンをいじってるのが不思議に見えたのでしょう
子供には

「パパはいつも家におるけど何の仕事をしてるの?」

この問いには正直、即答出来ない自分がいました。

詐欺が横行する業界での仕事をやっている
そんな後ろめたさがあり

「パソコンの仕事」

そう言葉を濁してる自分がいました。

正直、胸を張って言えないような仕事に心苦しさを感じていましたが、
収入が取れているため、しがみついてる状態でした。

収入が取れてる間は良かったのですが、
日々進化していくスピードの早いインターネット業界の稼ぎ方に
徐々に自分のスキルが追いつかなくなり
余裕のあった収入もジリ貧になっていきこのままだといつかは完全に途絶えてしまうのが
見えてきました。

正直お手上げでした。この先どうしよう・・・。

5

自分の力ではもはやインターネット業界の稼ぎ方についていけなくなってきた矢先に
一本の電話が入りました。

過去に僕にビジネスを教えてくれたメンターからでした。

「ひろぽんはインターネットのマーケティングの知識があるから
うちのアパレル事業を手伝ってみないか?」

 

話を聞いてみると事業は順調で年商3億を超えているというメンターのアパレル会社
普通なら2つ返事で飛びつきたいくらいいい話だったのですが
僕は大阪、メンターの会社は横浜

家族はどうする?子供の学校は?
新しい環境嫁さんの病気がまた悪化してしまうのでは?。

しかし、この先インターネット業界にしがみついていても
確実に収入が途絶えるのが見えていた僕には
家族と相談した結果、単身赴任、
今までずっと一緒に暮らしていた家族と
離れる決意をする以外ありませんでした。

6

メンターのアパレル会社の手伝いを始めて
インターネットで稼いでいたマーケティングの知識は役に経ちました。

しかし、実業はそれだけで通用するほど甘くはありませんでした。

インターネット業界では適当でも大丈夫だった
経理や法律、マネジメント能力など今まで勉強しなかったスキルが必須になり
経験の無い僕は困惑することばかりでした。

経理の数字すら見ることも出来ない僕は
社長をやりながら経理を
寝る間を惜しんで勉強していた。

単身赴任先のマンションに帰っても誰もいないシーンとした部屋
結婚してからこんなに家族と離れて暮らしたことはありませんでした、
時々テレビ電話で話すと子供の成長は早く見るたびに
大人っぽくなっていく顔やガッシリとして体つきになっていき
時間の経過を感じ目の前で成長を見れない悲しさが襲ってきました。

「インターネット業界では適当にやってても収入が取れてたのに
実業とはこんなにも難しいのか」

毎日深夜まで社長業をこなしながら帰ってから寝る間も惜しんで
経営についての書籍を読み漁りました。

そんな苦労のかいもあり
メンターの助けも借りながら徐々に会社の規模が大きくなっていきました。

7

メンターからの助けもあり徐々に上がる収益、会社の運営は順調だったが
何千万、億という金額が動いてる現場での経営判断には尻込みすることが多く
社長として自分の会社の方向や意思決定の決断が出来ないでいる姿勢を
メンターから度々指摘されていました。

「家族を守るために女装をしてチャットレディをやってた時の
がむしゃらだったお前はどこにいった?
家族をおいてまでこっちに来たのは相当な覚悟だったんじゃないのか?
その覚悟を見込んだからこそ自分の子会社の社長にしようと呼んだんだ。
お前には大きなお金を動かせるポテンシャルはあると思うが、胆力が無さすぎるぞ」

度々、注意はされていましたが
何度注意されてもなかなか改善出来ない僕に対して
我慢の限界が来たのかとうとうこう言われました。

「自分の会社なのに、会社をどうしたいという意志もなく、
俺の言うことだけ聞けばうまくいくと思っているだろう?
自分での経営判断もできないなら社長として失格だ。
お前にはどうやらキツイ修行が必要なようだな、ちょっと待ってろ!」

そう言い残して部屋を出ていった2時間後メンターが帰ってきて
告げられた言葉

「ドバイで1ヶ月物乞いをしながら修行をしてこい!!」

一瞬、耳を疑いました。

「え?物乞いですか?」

「そうだ、ドバイで物乞いをして金を稼いできてみろ!」

インターネットに載っていた嘘か本当か分からない情報ですが
ドバイでの物乞いは月収にして800万を稼いでいるそうです。

始めは冗談かと思っていたのですが、メンターの目は
真剣そのものでした。

「あと、市場調査として100人にアンケートも取ってくるんだぞ」

年商3億の会社を経営しているメンターが無駄な事をやらせるとは思えません、
行きたくないのと怖さでいっぱいで断りたかったのですが
僕は諦めて従うことにしました、

英語もしゃべれない、海外に1人でいったことがない、不安と恐怖の中
ひとり旅でドバイでの物乞い、100人分の英語でのアンケート
生きて帰ってこれるのか?・・・

8

深夜0時過ぎに羽田空港を飛び立ったドバイへの直行便、
約10時間飛行機に乗っていましたが深夜にも関わらず不安と恐怖で
一睡も出来ませんでした。

現地時間で6時過ぎに到着した僕は空港でポツンと1人ベンチに座って
落ち着きを取り戻そうとじっとしていました。

相談する相手もいない、周りに日本人もいない

「ホントに1人で海外に来てしまったんだな・・・」

今思うと、困ったらすぐに頼る癖が出て来るのがわかりました。
こんな状態だったら誰かに
「今からどうしよう?」って聞いていたと思います。

でも、もう今は1人、自分でどうにかするしかない。

そう思うと頭が動きだしました。

まずはネット回線をつなげるためにSIMの調達と
現地のお金に換金しないと。

ホテルの場所はどっち?タクシーで行くか?電車でいくか?

考えては決定、考えては決定、分からなければ調べるか案内所で聞くしかありません。
もちろん日本語が通じないのでたどたどしい英語で聞くわけです。

全てが自分で考えて行動することに対して
解決していく達成感をほんの少しですが感じてる自分が居ました。

ただ、今回の目的は観光では無く修行です、
物乞いと100人のアンケートを取るという大きな
ミッションが待っているわけです。

どこでやればいいのか、どうやってやればいいのか
全くわからない状態だったので
とりあえず街を歩くことにしました。

バージュカリファ、ドバイファウンテン、ドバイモール
高くそびえるビルや建物、青く広がるキレイな海

観光ガイドに載ってるキレイな景色が目の前に広がっていました。
気がつけば観光地をただただ歩いてるだけの自分
ミッションを達成するための方法がわからず街をさまよい続けました。

転機が訪れたのは到着して3日目、
とうとう物乞いをしている女性を見つけました。

道路と道路を跨ぐ陸橋の真ん中で
スーパーの袋を広げて正座していました。

アバヤと呼ばれる黒い民族衣装を来ていた女性は
年齢でいうと40歳くらいでしょうか、頭を下げてうなだれ
お金を入れてくれる人をひたすら待っていました。

その姿はなんとも哀れでした

「こんな事をしないと生活出来ないのか」と。

僕が観光にドバイに来ているだけなら
物乞いをしているその姿を目の当たりにしても
哀れには思ったでしょうが
何もせずに通過していたでしょう。

しかし、今回は哀れだなって感じてる事に対して
まさに目の前での物乞いの行為に対して
自分も同じ事をしないといけないという現実に絶望感が出てきました。

「なんでこんな恥ずかしい事をしないとあかんねん・・・」

そう思いながらも次の日僕は腹をくくりました。

ドバイモール近くに橋があり
適度に人通りがあるこの場所で
僕は物乞いをやることに

もうここまで来たからにはやるしかない
僕は物乞いのために用意したものを広げます。

スケッチブックとお金を入れてもらうために
アイスコーヒーが入っていたプラスチックの容器です。

スケッチブックにはマジックで大きく
「I AM TRAVELING AROUND UAE」
「WITHOUT MONEY」
「PLEASE SUPPORT MY TRIP」

訳すとこう書いてあります。
「中東を旅していますがお金がありません、どうかサポートをお願いします」

準備はこれだけです。

アイスコーヒーが入ってたプラスチック容器は目の前に置き、
後は、スケッチブックを取り出し目の前を通りすぎる人たちに見えるように
出すだけ

「さあ、行くぞ!」

膝の上で寝かしてるスケッチブックを見えるように出そうとした瞬間
て、手が動かない・・・。

そうなんです、お金がないから助けてくださいという
スケッチブックの文字が読まれ変な視線が集まることに対して
ものすごい恐怖と屈辱感が出てきて身体が拒否反応を起こし
手が動かないんです。

惨めでした、昨日の物乞いをしている女性の姿が浮かんで来ました。

「なんで、僕がこんなことをせなあかんねや」

何とか辞めたい、日本に帰りたい
そんな葛藤している時間が30分程過ぎたでしょうか

「せっかくここまで来て何もやらへん方がキツイわ」

「ヨシッやろう!」

その言葉とともに思い切ってバッと目の前にスケッチブックを出しました。

想像していたように、
不思議そうに文字を読んでいる人や
哀れそうにな顔をしている人、
実際はどんな感情でスケッチブックの文字を
読まれてるのはわかりませんでしたが
ただただ僕は恥ずかしかったです。

集まる視線に全く合わせることが出来ず
ずっと、うつむいていました。

本当に屈辱な時間でした
「帰りたい、帰りたい、帰りたい」

何度心の中で叫んだでしょうか

それから数分した時に目の前で
チャリンと音がしたんです。

ハッと顔を上げるとサングラスをしていた白人の男性が
ニッコリした笑顔でこっちを見ていました。

何か話かけてくれてましたが意味はわかりません、
ただ応援してくれてるのはわかりました。

屈辱感と恐怖の中行った初めての物乞いが成功した瞬間です。

「ホンマにお金って貰えるんや」

この瞬間はメチャメチャ嬉しかったです、
一つの大きな壁を超えれた気がしました。

その後もチャリンチャリンと硬貨が入り
紙幣をくれる人まで現れました。

最初はあれだけ怖くてビビってた僕も
1時間もすぎるとお金を入れてもらうのが当たり前に感じ
ちょろいなって思い始めていたんです。

9
少し物乞いにも慣れてきて余裕が出始めて
開始してから2時間くらい経った時、

突然、パシャッて音がしたんです。

「ん?なんや??」

驚いて音のした方を見ると
1人の警備員が僕の物乞いの姿を写真に取ってるんです。

そしてどこかに電話をしたかと思うと
数人の警備員が集まってきて取り囲まれてしまいました。

「え?ちょっとヤバイんちゃう」

とっさにそう思った僕は
お金の入ったカップとスケッチブックを
急いでリュックにしまい込み

その場を走って逃げようとしました。

その動きを察知した警備員は僕の手をつかみ止まれ!と叫びました。

そして、立て続けに何やら英語で話しかけてくるのですが
突然の事で何を言ってるのか全部は理解が出来ません。

ただ、ここでお金をもらうことはダメだと言ってるのは
伝わりました。

囲まれて逃げることが出来なくなった僕は素直に従いました。

「注意されるだけで終わるやろ」

そう思っていたのですが、なかなか帰らせてくれません。
そしてどこかに電話をしているかと思ったら
こっちへ来いと、10分ほど歩かされてある建物の前につきました。

「ん?ここはどこやろ?」
キョロキョロと辺りを見てみると
POLICEと書かれた文字が

「え?まさか、逮捕されるのか?」

正直、警察署に連れてこられるとは思わなかったので
気に心臓がバクバクと音を立てて激しく鳴り始めました。

中に入らされた僕は
「とりあえずここに座っていろ」という警察官の言葉と共に
1時間イスに座らされて放置されていました。

取り調べがあるでもなく、警察官が近寄ってくるでもない
なんで待たされてるのかわからない
この1時間はホンマに怖かった、

待たされている間、ドバイでの物乞いがどれだけの罪になるのか
重罪なのかすら全くわからない中
恐怖と不安でガタガタ身体が震えていました。

「もしこのまま逮捕されたら、牢屋にいれられたら
下手したら死刑になってしまうんでは?家族にもう一度会えるのか?・・・」

いろんな思いが巡り
家族の顔や両親、メンターの顔がぐるぐる脳裏に浮かんできましたが
誰も助けてくれる人はいません。

ただただ祈るしか無かった1時間でした。

そして、入ってきた警察官が何やらまくしたてるように話始めたかと思うと
ひろぽんが持っていたスケッチブックをちぎり
ビリビリに破ってしまいました。

「今度やったら逮捕して日本大使館に連絡して強制退去させるから、わかったか!」

恐怖のあまり、
「Yes」「Sorry」しか言うことが出来ませんでしたが

結局、1回目ということで大目に見てもらい
厳重注意で釈放されることになりました。

「よかった」

力が抜けて近くのベンチで座り込んでしまいました。

10

警察から釈放された次の日

とりあえずミッションである物乞いをするための
場所を探し街をさまよってる僕がいました。
警察官から言われた
「次同じことをやったら逮捕して強制送還だからな!」

その言葉がグルグル頭の中で何度も繰り返し流れてきます。
物乞いをする事に対して怖くて逃げたい気持ちに
一度捕まった心には、早く逃げたい日本に帰りたい気持ちが溢れていました。

ドバイに到着してから4日目
メンターから命じられた物乞いで800万稼ぐこと、
市場調査のための100人分のアンケート
何一つまともに出来ていなかったこの状況に
やらなければいけないというのが頭で分かっていても
一度捕まった恐怖に身体が動かずどうやっても再開する事が出来ませんでした。

11

ただただ時間だけは容赦なく過ぎていく現実に僕は悩みました。

ドバイに来た目的は物乞いや100人のアンケートを自分1人の力でやり遂げる修行を通して1人で決断出来ない意志の弱さや甘えを
排除する事だが全く達成していません。

それどころか、ミッションの途中なのにむしろ逃げようとしています。

為す術がなく追い詰められる中、記憶が走馬灯のように流れてきました。

思い返せば子供の頃から追い詰められると
こういう思考たちが現れてきていました。

「早く死にたい」「引きこもりたい」「海外に逃避したい」

何か上手くいかない壁が立ちはだかると逃げ癖が出ている自分に気づきました。

少し上手くいっては気を緩め手を抜いて
逃げるようになるからダメになっているんじゃないかと
この繰り返しで自分だけじゃなく家族までも不幸にしているじゃないかと

メンターが僕に会社を任せてくれたのも期待をしてくれてるわけだし
家族も単身赴任で行くことを許してくれてるわけだし
そんなみんなの期待を背負ってるのに

それなのに、それなのに、
「また逃げようとしている・・・」

いつも他人や環境のせいにして自分から壁を乗り切ったことが
何一つないじゃないか

今までそんな生き方でも何とかなってきたのに甘えて
背負うものが大きくなっているのに変わらない

このままだと不幸にする人を増やすだけじゃないか

「情けない・・・」

本当に自分の事が情けなくなりました。

と、同時にこの情けなさを気づかせてくれるためにメンターは厳しい言葉で
ドバイでの物乞いをやってくることを命じてくれたんだと
点と点が全てつながった瞬間でした。

「ちくしょー、もう逃げへんぞ!」

12

そんな情けない姿をもう晒したくない
そう思った僕はそれから毎日、路上に座り物乞いを続けました。

警察がこないかビビりました、
ドバイは42度の気温、容赦なくギラギラと照り続ける太陽と
座ってるアスファルトから来る照り返し
座ってるだけで滝のように汗が流れます。

水を飲まないとホントに倒れてしまうような容赦ない環境と
警察に捕まってしまうという目に見えない恐怖と戦い
逃げたくなる気持ちを抑えてお金を貰い続けました。

逃げたら負け、勝つんだ弱い心に勝つんだ

物乞いを通して人とのつながりやビジネスへのヒントをたくさんもらい
お金をもらうことも出来ました。

困ってる人に対して助けてくれようとする人の優しさに触れる事が出来た。

断られても断られても道を通り過ぎる人を捕まえ
100人へのアンケートもやり切りました。

全部、1人で異国の地に来て自分で考え得た経験は本当に大きかったです。
たくさんの事を学ぶ事が出来ました。

表では話せないドギツイエピソードを話してる
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